Prologue



プロローグ

 2016年6月4日朝6時。パリのシャルル・ドゴール空港は冷たい雨で覆われていた。

 僕は搭乗ゲートのベンチに座り、乗り換えのマルセイユ行の便を待っていた。出発時刻までまだ時間があり、乗客の数はまばらだった。空港内は寒く、僕はバックパックから薄手のウインドーブレイカーを出して着た。温暖な南仏に持ってゆくべきかどうか迷ったけれど、こんなにすぐに必要になるとは思わなかった。

 そしてスマホを取り出す。

 ニューヨークを発つ直前に買ったやつだ。当時職場でスマホを持っていなかったのは、恐らく自分だけだったと思う(この頃、グランドセントラル駅のホームレスの人でさえスマホを持っていて軽いショックを受けた)。それでも大きな不便は生じなかったから、いかに自分の生活が世間から外れていたかがわかる。渡仏するにあたり、思い切って買ったのだけれど。後日、この投資に本当に感謝することになる。

 インターネットのニュースは、記録的豪雨のためにパリ各地で洪水が発生したことを伝えていた。ルーブル美術館も収蔵品の避難を開始したという。パリを滞在先にしなくてよかったな、と僕は安堵した。実際、パリに行く可能性もあった。しばらくネットをさまよい歩いた後、ブラウザを閉じて、メールアプリを立ち上げた。慣れない手つきで携帯画面のキーボードをタッチする。スマホで送る初めてのメールだった。

親愛なるジョイスへ

いま無事にパリに着きました。

これからマルセイユに向かいます。いまのところ万事順調です。

ところで飛行機のチケットを見ていて気が付いたのだけれど、帰国の日が授業最終日の翌日ではなくて、2日後になっています。これは1日余計にホストファミリーに泊まることを意味するのですか?それは可能なでしょうか?

いまパリは朝六時だからニューヨークは深夜。予想に反してジョイスからの返事はすぐに来た。

<心配ないわよ。一日くらい余分に泊まらせてくれるはず。それよりフランス滞在を楽しんだら>

 少し楽観的過ぎるように思ったけれど、六週間後のことだし、それに今日は週末。今騒いでも仕方ないので、僕はとりあえずジョイスの言葉を信じることにした。

 ジョイスは今回のレジデンシー、すなわちフランス短期留学の米国側コーティネーターだった。美術系学生の留学を斡旋するエージェントであり、演劇街ブロードウェイの中心に小さなオフィスを構えていた。根はいいおばさんなのだが、細かい注文が多いかと思うと、肝心な部分が抜けていたりと、彼女についてはいろいろと鍛えられた。出発直前、飛行機チケットを受け取る際に一度だけ会った。外見はベット・ミドラーを小柄にした感じ。昔、女優を目指していたと言われても驚かない。むしろエンターテインメントと無縁であったとしたらそちらの方が意外な感じがする。

 僕はジョイスの返信を読み終えると、スマホをしまい、窓の方に目を向けた。そして雨に濡れた滑走路を眺めながら、「あの日」のポールからのメールを思い出した。すべては、あの一本のメールから始まったのだ・・・